こんにちは。第2子をを授かる前、不妊治療をしていた親子留学カウンセラーのはなです。
なぜ、1人子供を産んでいるのに2人目で不妊になるの?と疑問に思う方いるでしょう。しかし、「2人目不妊」に悩まされている母親は、決して少なくありません。
1人目を出産した時よりも夫婦ともに年齢が上がっていることや、それに伴う様々な体の変化、育児のストレスなどが影響して不妊となることもあるのです。
今回は、不妊治療と孤独と息子の障害の中で命を授かった奇跡の体験談についてお伝えします。
この記事であなたに伝えたいこと
兄妹の良さを知っているからこそ、2人目が欲しかった
わたしは3人兄妹の真ん中っ子です。両親、祖父母の3世代で同居していたので、大家族の賑やかな中で伸び伸びと育ちました。
小さい頃はケンカばかりしていた兄妹も、成長してからは良き相談相手となりました。今思えば、兄妹喧嘩を通して学んだことも多かったです。
お友達を叩いたり叩かれたことはありませんが、兄妹喧嘩では容赦なくプロレス技のような闘いが繰り広げられる日常。それはもう障子やふすまが壊れる勢いで闘いました。それでも、あっという間に仲直り出来るのが兄妹の良いところです。
わたしは、どのくらいの力を入れたら泣くほど痛いとか、自分より弱いものにはどのくらい手加減しなきゃいけないかということを実践を通して学びました。
美味しいものは早く食べないとなくなるという弱肉強食の理不尽さも学びました。どれも学校の授業では教わらないことです。
「3人寄ればもんじゅの知恵」
つまり、バカであっても3人集まれば素晴らしい考えが生まれるという例えがあります。3人以上集まると、1人や2人きりの時に比べて、グンと多様性が広がって、遊びなども面白くなりますよね。
トランプゲームひとつを取っても、2人でする「ババ抜き」は面白くありません。自分がジョーカーを持っていなければ相手が持っているとわかってしまうからです。
3人集まると、2人の時に生じやすい対立関係もしくは密着関係を崩すような微妙なバランスが生まれます。そんなバランス感覚を養えるのは、3人兄妹の良さです。
そういった背景から、自分もいつかは子供を3人くらいは欲しいなと思っていました。
息子の酷いアトピー性皮膚炎と帰ってこない旦那
そんな思いで23歳に結婚し、24歳で第一子の男の子を出産しました。
しかし、初めての育児は想像以上に大変で、一時期は、子供3人どころか2人目なんてもう無理だし1人を育てる自信すらないと思ったことを覚えています。
息子は、酷いアトピー性皮膚炎があり、四六時中、体を搔きむしりました。また、母乳以外飲んでくれず、昼も夜も関係なく1~2時間おきにおっぱいを欲しがりました。
母乳をあげてオムツを取り替えては、抱っこしないと大泣き。抱っこをしている間は寝ても、布団に下ろすと大泣き。やっとぐっすり寝て布団での寝かしつけに成功と思ったら体を搔きむしりながら起きて大泣き。その繰り返しが24時間ずっと続く毎日です。
旦那はもともと多忙で、日付が変わる前に帰宅することは少なかったですが、だんだん自宅に帰って来る日すら減っていきました。ノイローゼになりそうなほど孤独な日々だったことが、一番辛かったです。
それから、息子は1日4回アレルギーの内服薬を飲み、1日3回3種類の塗り薬を患部に重ね塗りをする必要がありました。
インフルエンザなどの一時的な病気で飲む薬のように期間限定ではなく、それが毎日の日課のようなものです。
小児科の医師には「子供は全力で体を掻きむしってしまうから、夜は手足を縛ってください。」と言われました。さすがにどうしても我が子を縛ることは出来ず、体を掻きそうになったら、わたしが代わりに体をさすりました。
手を止めると泣くので、夜中さすり続けました。
腱鞘炎になっても頼る人がいなくてどうしていいかわからなかった
毎晩、首の座らない赤ちゃんを1人でお風呂に入れて、抱っこしたままお風呂から出たらすぐに薬を塗って、風邪をひかないように急いで着替えさせて、大泣きする息子にそのまま母乳をあげて、この間、わたしはもちろん素っ裸です。
自分の髪や体を丁寧に洗う暇もなく、コンディショナーなんてする余裕もなく、髪はいつもボサボサでした。
24時間ホッと一息つけるような時間はなかったです。
さらに、孤独育児で朝から晩まで息子を抱っこしていたため、腕と手首に負担がかかり過ぎて、両手首が腱鞘炎(けんしょうえん)になってしまいました。
子供を優先して自分のことは後回しにしていたので、我慢の限界まで我慢していたら、両手が痺(しび)れて動かなくなってしまったのです。
最悪の状態になってから病院に行ったら、「これは腱鞘炎の横綱です。なんでこんなになるまで放置していたんですか。」と医師に怒られました。放置したくて放置してたわけじゃない、と思いました。
子供のかかりつけの病院には頻繁に通っても、なぜか自分のために病院に行くという発想が湧かなかったんです。
毎日ものすごく痛かったけど、頼る人がいなくてどうしていいかわからなかったんです。わたしは自分の視野がものすごく狭くなってることに気づきました。
それからは、息子をおんぶして通院し、毎週痛み止めの注射を両手首に打ち、電気治療を続けました。育児は、病欠も休暇もなく続きます。
わたしが高熱を出そうが、息子が高熱を出そうが、旦那は帰って来ませんでした。
「まま だいすき」本当に嬉しい瞬間だった
息子が歩くようになり、言葉を話すようになった頃には、腱鞘炎はかなり良くなりました。
息子の活動範囲が広がるにつれて、児童館や公園でお友達が出来たり、わたしもママ友達が出来て、少しだけ視界が広がったのを覚えています。
そして、息子が2歳を過ぎると、同じくらいの年齢の子供を持ったママ達は次々と第2子を妊娠していきました。まさに妊娠ラッシュ。
世の中に2~3歳差の兄弟が多いのも納得の現象です。仲の良いママ友達も次々と妊娠しました。
当然、児童館の育児サークルや公園に集まっていたママ達の話題は、2人目を妊娠中によくある悩みや夫婦生活の話、妊娠後のパパの反応などがメインになります。
その当時、わたしはほとんど旦那と接する時間もなく、夫婦生活もからっきし。そんなわたしにとって2人目妊娠なんてほど遠く、おいてけぼりになったような気持ちになりました。
世の中の我が家以外の家庭は、みんな平和で幸せそうに思えたことを覚えています。ひたすら孤独を感じる日々です。
わたしの全愛情と全精力を注ぐ相手は息子になっていました。
幼児教室には通わず、私自らできる限りの幼児教育を行っていた日々が懐かしいです。その成果なのか天才なのか、息子は3歳にはひらがなもカタカナもほぼ全て書けるように。
息子が得意げに見せてくるお絵かきボードを見る度に「まま だいすき」「いつもあそんでくれて ありがとう」と書かれていて、それは本当に嬉しい瞬間でした。
やっぱり2人目が欲しい、どうしても息子の兄妹をつくってあげたい
ある日、息子は初めて白い紙にメッセージを書いてくれました。息子からの初めての「手紙」です。
嬉しく思いながら読むと、「なんで ママのおなかには あかちゃんが こないの?」と書いてありました。とてもショックで言葉が出なかったです。
息子は、お友達のお母さんが次々と妊娠、出産して、どんどんお友達の兄弟が生まれていくのを見て、自分も兄弟が欲しいと思っていたようです。
でも、きっとその思いをストレートにママに言えないくらい、3歳の息子に気を遣わせてしまうくらい、それほどわたしは暗い表情をしていたんだと気づきました。
一時は諦めていたけれど、「やっぱり2人目が欲しい」「どうしても息子の兄妹をつくってあげたい」と強く思うようになりました。
旦那は「もう子供はいらない」と言っていたので、わたしは歯を食いしばって何度もお願いし、旦那を説得する形で妊活をスタートしたのです。
生理が来る度に落胆した、不妊治療の日々
月に1度の排卵日周辺だけ旦那に協力をお願いしました。毎日の基礎体温を計り、グラフをつけ、タイミング法を調べて妊活を続けましたが、なかなか妊娠できずに1人で悩んでいたことを覚えています。
わたしは勇気を出して、さいたま市内の産婦人科「彩レディースクリニック」の不妊外来に通い始めました。この産婦人科を選んだ理由は、元々さいたま市の子宮ガン検診等でお世話になっていて、医師の対応や人柄がとても良かったから。
超音波検査で子宮や卵巣の状態を調べたところ正常でしたが、ホルモンバランスが乱れて生理不順になっていたため治療することになりました。
排卵誘発剤という女性ホルモンの薬を毎日飲み、良質な卵子を育てるという治療です。産婦人科の不妊外来では、卵子の大きさを計り、排卵日をほぼ正確に予測してもらうことが出来ます。
この医師が予測したベストタイミングを狙う、より精度の高いタイミング療法を始めたのです。タイミング療法や基本的な子宮・卵巣の状態の検査は保険適用が可能なため、診察料は1回3,000~4,000円程度でした。
タイミング療法が成功しない場合は、次のステージとして人工授精、その次のステージとして体外受精、顕微授精という選択もあります。
これらの高度生殖医療は保険が適用されないため、人工授精は1回15,000~25,000円、体外受精や顕微授精は1回300,000~600,000円と高額になります。
所得制限などの要件を満たせば自治体により150,000~250,000円の助成金が出るので、お住まいの自治体にご確認ください。
わたしは、毎月ほんの少しの体調の変化に一喜一憂し、生理が来る度に落胆しました。「また妊娠できなかった…。」と何度も何度も落ち込みました。
妊活をしていると、様々な人の妊娠情報を聞くたびに敏感に反応してしまったことを覚えています。
妊娠を望まない人が「出来ちゃった」とばかりに次々と妊娠していく一方、心から妊娠したいと思っている自分のところにはなぜ赤ちゃんはやって来ないのだろう。
「赤ちゃんは親を選んで生まれてくる」という内容の本を読み、「わたしは選んでもらえないのだろうか…」と思いました。
世の中の不平等を呪った。息子の障害と不妊治療薬の副作用
そんな頃、息子の3歳児検診の時に、息子の不同視弱視という障害がわかりました。
親バカ心に将来有望だと思っていた息子は、生まれつき左目が見えていなかったのです。右目が見えるため普通の生活をしていたので、3歳児検診で弱視がわかった時の衝撃は一生忘れられません。
医師から「重度の弱視です。お子様は将来に渡って勉学等は困難でしょう。当院では治療の施しようがありません。」と言われて目の前が真っ暗になり、その後しばらくは記憶がないほど…
息子の不同視弱視について詳しく書いた記事はこちらです。もしよかったら読んでください。
息子は生まれた時からアトピー性皮膚炎が酷く、健康であれば味わうことのない激しい痒みとずっと戦って来て、やっと症状が落ち着いて来たところでした。
何もしなくても肌がツルツルピカピカで健康な子供達をどれほど羨ましいと思ったことかわかりません。
なんで息子ばかりが、こんなに苦しい思いを重ねてしなければいけないんだろう。わたしは世の中の不平等を呪いたいようなドス黒い感情が沸き上がってきたことを覚えています。
東大病院の弱視専門外来へ通いはじめ、息子の視力トレーニングをしながら、自分の不妊外来への通院も続ける日々。
しかし、1年以上ホルモン剤を飲み続け、不妊治療を続けても妊娠できず、薬の副作用の頭痛などが酷く精神的にも参ってしまったわたしは、不妊治療を一時中断することを決めました。
新しい命に心の底から感謝したい気持ちが溢れた
不妊治療を一時中断したあと心機一転、息子と一緒に空手道場に通い始めました。
弱視の視力トレーニングのために、ビン底眼鏡にアイパッチをつけていた息子は、公園などで仲間はずれにされることが多かったからです。
幼稚園で、お友達にメガネを折られて帰って来たこともありました。イジメなどの理不尽な問題からは、何があっても我が子を守りたい。でも、現実には、小・中学校、高校と成長していく中で、親の見えないところで起こり得る問題は増えていきます。
つまり、子供に降りかかる災難から親が何もかも守ることなんて不可能です。だとしたら、子供自身の「困難に打ち勝つ精神力」を育てなくてはいけないと思ったのです。
引っ込み思案の息子は1人では道場に通いたがらなかったので、それならばとわたしも同時に申し込み、親子で一緒に空手をスタート。久しぶりに思いきり体を動かし、空手仲間も出来て、意外にも自分自身の良い気分転換にもなりました。
それが功を奏したのか、2人目の女の子を授かったのはそれからまもなくのこと。わたしのお腹に宿ってくれた新しい命に心の底から感謝したい気持ちが溢れました。
もう二度と妊娠できないような気がしていたので、夢をみているように感じるほど嬉しかったです。
不妊治療の経験を通して、つくるではなく授かると学んだ
目の前にある命は、奇跡のような確率で生まれた命だと思うと、ものすごく尊く感じます。生まれてきてくれただけで、障害も、病気も、どうでもいいことのように思えました。
子供だけではない、自分の命もそうです。
健康で若い男女がタイミング療法を行っても、妊娠の確率は約20~25%だと言われています。しかもこれは、ホルモンバランスが安定している女性の場合の確率とのこと。
妊娠は、女性側の排卵障害などの主な原因だけではなく、体調やストレス、ホルモンバランスの乱れ、男性側の生活習慣、前立腺の炎症、精子の異常などの様々な要因に大きく影響されるのです。
通常、約1~3億個の精子が卵管に向かって泳ぎ出しますが、卵管にたどり着くまでにその99%が死滅すると言われています。卵管にたどり着く優秀な精子200個程の中で、最後に勝ち抜いた1個のみが受精します。
わたしは子供の頃から超ド級の運動音痴で、運動会のどんな競技でも1位になれたことなんてありませんが、数億個の中で1位を勝ち取ったからこそ生まれてきたんだと思うと、なんだか自分が誇らしい。
そう。誰もが、奇跡のような確率で生まれてきたのです。
「子供をつくる」という言葉を使っていた自分は、なんておこがましかったんだろうと思いました。子供は「つくる」のではなく「授かる」ものなんです。
この世に生まれてくる命は、ただ無事に生まれるだけで奇跡なんだということ。これからも心に刻んで子育てをしていきます。
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仕事最優先の旦那のことを書きました。もしよかったら読んでください。