2011年、アメリカでの親子ホームステイから帰国後、娘の鼻血が再発。
もっと長期で海外移住した方がいいと確信したわたしは、世界中から移住先を検討し、セブ行きを決意しました。
『幼い子供2人を連れて母子で海外移住するのはムリだと思う理由』を挙げようと思えば、キリもなくあげることができます。
それでも、行くことを決意した一番大きな理由は、「今、行かなかったら、わたしは絶対に5年後、10年後に後悔する」と思ったから。
今回は、フィリピンのセブに母子移住を決断した理由と福島原発事故からの教訓についてお伝えします。
はじめての子連れ海外滞在となったアメリカ親子ホームステイについての前回の記事はこちらです。
この記事であなたに伝えたいこと
福島第一原発の事故後にママ達の想いから生まれたコミュニティ
東日本大震災後からセブへ4年間親子移住することを決断する直前まで、わたしは「5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会 さいたま」の運営スタッフとして活動していました。
「5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会」とは、子育て中のママたちが、未来ある子供たちのために出来ることを考え、実行していく市民団体です。
東日本大震災後、神奈川県の葉山から始まり、全国18カ所の地域で運営されています。
5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会
http://www.5nen10nen.com/
大人より放射能の影響を受けやすい子供たちが 5年後も10年後も健やかに育つことができますように。そんなママたちの想いから生まれたコミュニティです。
未知の事例に対して健康に影響がない、とは言えない
2011年3月、東京電力福島第一原発が爆発し、大量の放射性物質が拡散しました。
福島から遠く離れた埼玉や東京でも空間線量が上昇。関東近郊の土壌や食品、飲料水から基準値の数百倍、数千倍の放射性物質が検出され、福島や千葉に住む女性の母乳からも放射性物質が検出されたのです。
事故から2ヶ月以上経ってからメルトダウンが発表されるなど、後から後から事故当時隠された事実が公になる状況でも、政府は「ただちに健康に影響はありません」を繰り返すばかりでした。
乳児が受ける放射能の影響は、大人の100倍と言われています。真っ先に子供に影響が出ます。
チェリノブイリの若い人達の多くは「チェリノブイリネックレス」と呼ばれる甲状腺癌の手術跡があります。チェリノブイリ原発事故では、その影響が出始めたのは事故から5~10年後のことでした。
もちろんチェルノブイリと福島の事故は違います。放出された放射性物質の核種、それぞれの核種の量、事故の収束方法など、異なる点が多いです。
同様の影響が出るかどうかは誰もわかりません。それはつまり、福島第一原発事故は、前例のない事故だということを意味します。
どんなに専門知識を持った科学者だとしても、未知の事例に対して「大丈夫」「健康に影響はない」と言える人はいないはず。
唯一、断言できることがあるとしたら、「将来どのような影響を及ぼすかはわからない」ですよね。
そう、わからないんです。ただでさえ放射能の人類に対する影響については未だ解明されていないことが多いのだから。
完全に空気の読めない母親になっていた
放射能の影響を受けにくい大人は大丈夫かもしれない。健康で免疫機能の強い子供も大丈夫かもしれない。
でも、うちの子供たちは食物アレルギーやアトピー性皮膚炎があります。もともと免疫機能が弱いです。
それなのに…原発事故当時のわたしは放射線のリスクに無知だったため、しばらく無防備に過ごしてしまいました。そして、娘が頻繁に大量の鼻血を出すようになって初めて異変を感じたのです。
たくさんの本や資料、放射線被曝専門医による医療勉強会などで必死に勉強し、漠然としていた危機感がハッキリとした形になった時、自分が無知だったことを激しく後悔しました。
もっと早く放射性物質の特性や拡散情報を知っていたら、子供たちの被曝を最小限にできたのに。何度も何度もそう思いました。
その激しい後悔から「何か行動しなければ」という衝動へ。
他のママたちもわたしと同じように放射能に関する情報を知りたいのではないかと思い、自宅でお茶会を開き、自分が持っている資料のコピーをママ友に配りました。
しかし、世間は「放射能」という言葉をタブー視する空気。放射能のリスクが書かれた資料を配るわたしは、完全に空気の読めない母親になっていました…
ママ友たちの表情を見て、私の好意は要らぬお節介だったと気づき、無力感でいっぱいになったことを覚えています。
テレビから流れる情報を信用してはいけない
東日本大震災後の当時、政府は原発事故を過小評価する姿勢を貫きました。
利権絡みで偏った報道をしているマスメディアは「安心安全」をうたい、「福島の野菜を食べて応援しよう」というキャンペーンまで打ち出していました。
さらに、ネット上に限らず「放射能が怖い」と言うだけで叩かれるという風潮。福島県の放射線リスク管理アドバイザーとなった原発推進派の御用学者山下教授が「ニコニコ笑ってる人には放射能は来ません」と言い出す始末です。
唖然(あぜん)としました。
日本特有の同調圧力に慣れてしまうと客観視することが難しくなりますが、もしこの事故が海外で起きていたらどうだったでしょう。
あなたはチェルノブイリ周辺の野菜を食べて応援しますか?それも原発事故の直後に。
3月15日すでにメルトダウンを認識していた東京電力はこれを隠し、マスコミ各社にも戒厳令。ジャーナリストの岩上安身さんは当時レギュラー出演していたフジテレビの朝の番組「とくダネ」でタブーを指摘し、12年続けた番組を降板させられました。
その後、岩上さんは現場から真実を発信することを理念に掲げ、インディペンデント・ウェブ・ジャーナル(IWJ)を設立。わたしは岩上さんのメディア勉強会に参加し、非常時のメディアの情報統制についても学びました。
テレビから流れる情報を信用してはいけません。
心の奥に放射能の不安を閉じ込めているママ達がたくさんいた
当時は、小学校の給食の食材の産地もわからず、給食食材が放射能検査をされることもありませんでした。
唯一行われていた空間線量の測定は各都道府県に1ヶ所、しかも地上十数メートルのビルの屋上という状況。放射性物質は小さな金属物質です。ホコリと同じように地表に降り積もります。県境は関係ありません。
「子供を被曝から守る」という観点で考えたら、公園の砂場など、地面すれすれで遊ぶ子供達の目線で測定しないと意味がないのではないか。
もっと幅広く測定しないと、部分的な高線量のエリアとなるホットスポットはわからないのではないか。疑問は膨らみます。
わたしはガイガーカウンター(放射線測定器)を購入し、近隣の放射線量の測定を開始しました。
そして実際に測定してみると、近所でも木の根元や側溝などの地表面近くで高い放射線が計測され、「すぐにその場所を離れよ」ということを告げる警報が鳴った場所が数カ所あったのです。
はじめは1人でした。放射能を心配するお母さんは世の中にわたし1人なのかと不安になるほど孤独でした。
でも、もしかしたら、わたしと同じような思いでこの情報を必要としている人がいるかもしれない…と思い、毎日の近隣の放射線量をTwitterで発信。
2011年当時、同じように不安な思いを抱えているママが1人、また1人とTwitterを通して繋がっていき、思いを共有できた時は本当に嬉しかったです。
実際には、世間の空気を読んで不安を声に出せなかっただけで、心の奥に不安を閉じ込めているママたちがたくさんいることがわかりました。
1万筆以上の署名を集め、埼玉県議会へ放射線被曝の陳情書を提出
その繋がりから「5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会 さいたま」の運営に参加し、子供の放射線被曝を心配するママたちが不安な思いや情報を共有できる場としてのサロンを開催。
また、この会のメンバーを中心に1万筆以上の署名を集め、2011年7月、埼玉県庁にて、知事部危機管理対策本部、埼玉県教育局へ要望書と署名、 埼玉県議会へは陳情書を提出しました。
要望書には、下記を含む全8項目が盛り込まれました。そして、それらの要望のいくつかは、後に時間をかけて実現へと向かったのです。
- 地表面に近い場所での空間線量の測定
- 子供達が利用する公共施設での土壌の検査
- 放射線量の高い場所での利用制限や注意喚起
- 給食食材の産地の情報公開と測定
- 無料で母乳の検査ができるようにすること
頻繁に鼻血を出す娘の保養のために母子でアメリカへ発ったのは、要望書を提出後まもなくのことです。
放射能汚染された食品が売れないことは、風評被害ではなく実害
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
ドイツ帝国の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの名言です。
戦後最大の公害病となった水俣病発生時も、当初、政府と企業は経済を優先し、事実を隠蔽。そのために、正しい情報があれば助かったであろう数多くの人達が水俣病を発症し、苦しい闘病生活を余儀なくされ、死んでいきました。
1953年に最初の水俣病認定患者となった5歳女児が発症してから、実に50年経過した2004年、最高裁で水俣病患者側が勝訴となり、国はやっとその責任を認めたのです。
50年後、政府が過去の過ちを認め、謝罪してくれたところで、時間と命を取り戻すことはできません。
福島第一原発事故後、政府は国民を被曝から守るのではなく、食品等の暫定基準値を大幅に引き上げて「基準値内なので大丈夫」と言っています。
水俣病が広がる中で、メチル水銀を含有する水俣湾の魚介類が売れなくなった時、それは「風評被害」だと言われました。
今、福島第一原発事故により放射能汚染された食品が売れなくなったことが「風評被害」だと言われています。
違います。それは「実害」です。
補償費用が膨大になることを避けたいのはわかりますが、本来であれば原発を推進してきた国なり東京電力が全額賠償すべき「実害」であって、「食べて応援しよう」というスローガンのもと国民の負担で消費すべきものではありません。
やらない後悔より、やって後悔
市民団体の運営スタッフとして行政との交渉などに関わらせていただき、国や自治体を動かすことの難しさを痛感しました。
出来るなら日本の子供たち全員を守りたい。でも、そうこう言いながら長い時間をかけて闘っていたら、自分の子供さえも守れないのではないか。
国は守ってくれません。水道から放射性物質が検出されても水筒持参を認めないと言った小学校の校長も、あれこれ口を出す親戚でさえも同じです。
もし、万が一、10年後に私の子供が病気になったとしても、誰も責任は取ってくれません。
自分の子供を守れるのは自分しかいない、そう心の底から思ったことを強く覚えています。
アメリカでの親子ホームステイから帰国後、娘の鼻血が再発し、もっと長期で海外へ移住した方がいいと確信。世界中から移住先を検討した上で、セブ行きを決意しました。
「幼い子供を連れて母子で海外移住するのはムリだと思う理由」を挙げようと思えば、キリもなくあげることもできます。
それでも、行くことを決意した一番大きな理由は、「今、行かなかったら、絶対に5年後、10年後に後悔する」と思ったからです。
あの時こうしておけばと、やらなかったことを後悔するあの苦しさは、二度と繰り返したくないと思いました。
もしただの考え過ぎで、将来にかけて放射能の影響がないならそれでいいのです。やらなかったことを後悔するより、やって後悔する方がはるかに良いから。
2012年4月、「5年後10年後こどもたちが健やかに育つ会」の仲間にエールを送ってもらい、わたしは子供2人を連れてセブへ発ちました。
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住む場所、生きる場所は選ぶことが出来ます。まったく違う価値観の国で異文化に触れる経験は、視野を大きく広げてくれます。
フィリピン、セブでの親子留学と移住生活はわたし自身を大きく変えてくれました。
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